キュレーション・ブッキング・プレイリスト―作品のイメージと「偶像破壊」からの比較検討

(約9000字)

1.はじめに 


 現代アートには「キュレーター」という言葉がある。これは美術館での展示会を行う際にどのようなアーティストのどのような作品を展示するのかを決定するという、展示会の企画進行を行う役職を指す。この役職は現代アートの時代が誕生して以降非常に重要な任務を背負っているが、一方で「キュレーター」という言葉を芸術の世界、より狭めていえば現代アートの世界以外で耳にすることは意外に少ないのではないか。現代アート以外に目を向ければ、似たような意味を持つ言葉は存在している。例えば、ライブハウスのスタッフで出演者を設定し、その一日をプロデュースする人間のことは「ブッキングスタッフ」といわれる。さらに、ニコニコ動画などのネット上で展開される音が鵜の空間では特定のリスナーによって「プレイリスト」が作成されることも多々ある。これらの言葉とそれが意味する概念は一見非常に異なったものだが、作成された作品に対し自らによって新たな側面を提示し、ある種の新たな「文脈」を組成するという意味においては美術館における「キュレーション」であり、ライブハウスにおける「ブッキング」に共通する。ではなぜ、これらの言葉は互いに交差することはなく、それぞれの領域でのみ用いるようになっているのだろう。無論、このことを考えるにおいて対象となっている作品の「性質」は大きな要因である。しかし、これらの言葉には先述したように明らかな共通点があり、ある一定の水準までであれば互換が可能な言葉なのではないだろうか。であれば、これらが本質的に異なるものであるというためには、それぞれの言葉がどのような性質を持っているのかを検討していかねばならない。

 以上を前提に、本論は美術館におけるキュレーションというものがどのようなものなのかの検討から、音楽におけるブッキングやプレイリストとどのように異なるのかを検討する。それにあたって、まずは美術館における「キュレーション」を見ていきたい。 

2.キュレーション——偶像破壊的行為 

 美術館におけるキュレーションとは一体何か。この言葉を端的に説明できるものは少ない。だがある程度の水準においては共通の認識も生じており、それはおおよそ以下のようなものであるといえるだろう。 

キュレーターの仕事とは、すでに芸術の地位を得た特定の対象物を展覧会の空間に置くことである[i]。 

このキュレーターという言葉はもともと外来語であり、その起源は博物館や美術案の学芸員に近い。英語では”curator”であり、展覧会の組織などを意味する「curate」という言葉が由来だ。従ってこの言葉自体には現代アートにおける特別な意味を有する言葉として用いられているということはない。しかしながら、この言葉は近年特に現代アートの文脈で用いられている。先の引用も美術批評家による文章の引用だ。では、現代アートにおけるキュレーションにはどんな特徴があるのだろう。先に引用した美術批評家ボリス・グロイスの文章を引き続き参照しながら検討したい。そこでは、キュレーションには二つの作用——不透明なイメージを可視化するという作用、そしてそれによって生じるキュレーターによる作品の物語化——の二つが語られる。 

芸術作品とは実のところ、自らの定義をもってしては現前することができないし、観者にまなざしを強いることができない。そうするには、芸術作品は根源的に、病んだ、無力なものに見える。(…)展覧会という実践は、根源的に病んだイメージが健康になり、現前化し、十分に可視的なものとして現れうるための薬なのだ[ii]。 
しかし同時に、キュレーティングは偶像愛好を蝕む。その施療的な策略は、観者からは完全に隠しておけないためである。この意味で、たとえ計画に沿った偶像愛好であろうと、キュレーティングとは意図せずして偶像破壊の行為なのだ[ii]。 

彼の議論は「偶像愛好」と「偶像破壊」という、矛盾する二つの行為をキュレーターは同時に行っているという点において一見矛盾している。しかしながら、これ以降の節でブッキングおよびプレイリストを検討する際に大いに参照になるため、難解ではあるが参照したい。これらの議論において重要になるのは「イメージ」の存在だ。一つ目の引用では芸術作品を作成した芸術家の存在は一度切り離され、芸術作品そのものの持っているイメージが芸術作品そのものを経由してより正確に伝達するためにキュレーションが必要であるということが主張されている。この「根源的に病んだ」イメージを健康にし、「可視的」なものとして観者に届けることを可能にするという点で、キュレーターの仕事は評価されている。しかし、その一方で芸術作品そのものにあるイメージが「根源的に病んでいる」ものであるとして、それを可視化するキュレーターの仕事には少なからず恣意性が介入してくる。キュレーションによってある一定のテーマ性が前景化してくることによって、芸術作品を作成している芸術家が作品を作成する際に想定したイメージが変化してしまうのだ。これが「偶像破壊」という言葉で表現されている。以上のような作品本来が有しているイメージに対し、その作品をある文脈に置き換えることによって生じる倫理的な問題が今日のキュレーションにおける大きな論点であるとグロイスは主張するのだ。
 この議論が今日における現代アートの大きな問題として認識される原因には、展覧会の作者と作品を展示する芸術家との区分が近代ほど大きな力を持ってはいなかったからだと、グロイスは考えている。これに関して、以下の引用を参照する。ここでは、20世紀に誕生したレディ・メイドの誕生以降、芸術家とキュレーターとの区分が以前ほどの意義を失っていることが主張されている。 

社会で展覧会が果たす役割は、長いあいだ揺るぎなく安定していた。アーティストが作品を生み出し、次いでキュレーターがそれを選んで展示するか、あるいは却下するかであった。アーティストは自立した作者であるとみなされていた。それに対して展覧会を作るキュレーターは、作者と公衆のあいだをとりもつ者のことで、作者自身ではなかった。このようにアーティストとキュレーターの役割は、それぞれはっきりと区別されていたのである。(…)しかしながら、その時代は今や完全に終わった。アーティストとキュレーターの関係は根本的な変化を遂げつつある。(…)この状況が変わった理由を述べるのは簡単である。今日の美術は、作ることと選ぶことの一致によって定義されているというのが、その理由である。少なくともデュシャン以降、芸術作品と選択することとそれを創造することは同じになっている[ii]。

以上の引用にあるように、デュシャン以降の現代アートといわれる時代は、芸術家自身が創造したものではない「創造されたもの=レディ・メイド」な作品の展示を可能にしてしまった。この行為はいわば、芸術家自身によって創造された作品の中から展示会の主旨に沿って作品を選び取るキュレーターの仕事に近いものがある。それゆえ、芸術家自身により選定された芸術作品でないものを「芸術作品」として美術館の中で発生させるレディ・メイドの試みは、ある種キュレーターの仕事そのものでもあるのだ。 

3.ブッキング——偶像破壊と時間的制約 


3.1.キュレーションとブッキング

 さて、以上の文脈を前提にして、本稿では続けてライブハウスにおける「ブッキング」を考えたい。筆者はこのブッキングという言葉には先のキュレーションと非常に近い言葉の意味を有していると考えている。しかし、用いられている言葉が異なっているという事実を無視してこれらの言葉をそのまま等号で結ぶことはしてはならない。本節ではライブハウスの「ブッキング」の性質を解説しながら、先のキュレーションとどのように異なるのかを検討したい。
 まず、ライブハウスがライブを行う際、基本的に二つの形式に分かれている。出演者であるアーティスト自身が日程と出演者を設定し、アーティスト自身がキュレーションを行うという「自主企画」と、ライブハウスの専属スタッフが一営業日にテーマを設定し、そのテーマに沿った形で複数のアーティストを呼ぶことで成立する「ブッキング」の二つだ。このいずれの方が多いかについてはライブハウスの事情によって(規模や場所、認知度など)左右されるため一概には言えないが、自主企画は基本的に外部のアーティストによって行われるという性質上、アーティストがいなければライブハウスに収入はない。従って、ブッキングがライブハウスの経営を成立させている側面は非常に大きいといえるだろう。
 このような二つの形式を、先の現代アートにおけるキュレーションの議論と比較することによってどのようなことがいえるのだろうか。まず、ライブハウスでのブッキングを行うスタッフのことはよく「ブッキングスタッフ」といわれているが、彼らはいくつかのアーティストの中からその一日のテーマに沿ったアーティストに声をかけ、ライブを成立させるために当日のライブスケジュールなどを作成する。この点において、ライブハウスにおけるブッキングスタッフは美術館におけるキュレーターに近い。そして仮にキュレーターとブッキングスタッフの行う作業に類似点が確認できるのであれば、前節にてグロイスが主張したキュレーションの問題点がブッキングにも内包されている可能性がある。つまり、キュレーターは展覧会の中でアーティスト自身が形成したイメージを破壊し、自らが組成する展覧会の中で生成された物語に作品を埋め込んでしまうように、ブッキングという作業はアーティスト個人が形成する偶像を破壊し、ブッキングスタッフの意図するままに文脈化し、別のイメージを生成させてしまうのだ。この点は成立するだろう。ブッキングが行われるということは、いくつかのアーティストを自らの文脈上で再編集しているという意味においてはその作業はアーティストに対し非常に大きな影響力を有している。
 しかしながら、「キュレーション」と「ブッキング」という、それぞれ異なった言葉が用いられている以上、それらには互いに異なった意味があるはずだ。では、これらの違いとは一体何か。その一つに、会場で流れる「時間」がある。元来、「ブッキング」という言葉は出演契約などといった意味が内包され、その前提には演劇の特徴、すなわち開演時間と終演時間が関係している。美術館において、観者は美術作品を鑑賞する際自分のペースで作品を鑑賞することが可能である。しかし一方で、ライブハウスでの演奏では観客は自分の空いている時間のいつでもそこに赴けばいつでも好みのアーティストに会えるということはない。ブッキングライブは時間スケジュールにのっとって行われ、自分が見たいアーティストの出演までは他のアーティストの演奏も必然的に聞かざるをえなくなる状況が形成されているのだ。つまるところ、美術館における観者とライブハウス(あるいは劇場)における観客では流れる時間間隔が根本的に異なるのだ。この点において、キュレーションとブッキングは異なる[iii]。ライブハウスでのブッキングとはキュレーションと同様に「物語」を想像してしまうリスクを想定することに加え、音楽という時間に関係するものを取り扱う性質上、観客にある種の時間的制約を強いているのだ。この点では、キュレーションに比較して観客に対してより大きな抑圧を強いているのだ。

3.2.アーティストによる自主企画とキュレーション 

 以上のような前提に立った際、ブッキングにせよキュレーションにせよ、アーティストとっては偶像破壊を受けているにすぎず、彼らにとってはある意味では大きな問題である。では、この問題を解決する方法はあるのか。その一つの解決策は「自主企画」にある。この「自主企画」は一般的なブッキングライブと異なり、いわばアーティスト自身がキュレーターになる行為であり、それを通して他の出演者を自らの「物語」に沿った形で組み合わせ、加えて時間も自らで管理できる。先に筆者はブッキングもキュレーションも共通してアーティストを一つのイメージのもとに可視化してしまうということを指摘したが、アーティスト自身が自らでブッキングを行うことによって、少なくとも企画者自身にとっては自らのイメージをそのまま観客に伝達できる可能性が上昇する。無論、ライブハウスという空間がアーティスト個人では成立せず、ライブハウスのスタッフの支援によって成立している以上はそこに完璧なアーティストのイメージの伝達はできない。これに加えて、アーティスト自身がブッキングを行う自主企画は他のアーティストに対して「偶像破壊」的な行為を行うことになるのかもしれない。しかしながら、アーティスト自身による「自主企画」には、少なくとも企画者であるアーティスト自身の偶像破壊は生じない。この点において、一般的に「自主企画」が「ブッキング」よりも評価を得られるものであるというライブハウス業界の常識がなぜそのようになっているのかの説明も可能に思える。 

4.プレイリスト——時間的制約からの解放と新たな問題 

 先の節で筆者はライブハウスにおけるブッキングはキュレーションに比較して、グロイスが主張した偶像破壊的な性質に加えその時間的制約から観客にも大きな負担が強いられるということを指摘した。この問題はブッキングという作業が複数のアーティストを出演させる性質とそれらを一斉に展示(=演奏)させることが不可能であるという時間の制約があることが主な原因であるが、この問題を乗り越えることを可能にするのが本節で扱う「プレイリスト」である。これはアーティスト以外の第三者が新たに既存のアーティストの楽曲を再編成し、一つのアルバムのような形で再パッケージする行為であるが、ここには先のブッキングほど強烈な拘束力は持たない。プレイリストの作成とは既存の楽曲の流す順番をアーティストではない第三者が決定するものであり、プレイリストの作成者が自らの文脈に従って楽曲の再編成を行うことができる。したがって、ここにもグロイスにおける「偶像破壊」的行為が生じている。すなわち、楽曲の作者の有していた抽象的なイメージに対し、プレイリストの作成という形でその作成者によって文脈化が行われているのだ。この点においてはやはりキュレーターと近い性質を有しているといえるだろう。
 その一方で、ブッキングとはどのように異なるのだろうか。先に筆者はブッキングの性質をキュレーションの問題と観客の時間的制約の二つが特徴だと示したが、プレイリストにはブッキングで見られた「時間的制約」の問題は解消している。プレイリストを聞くリスナーはそのプレイリストの中から自分の好みの部分だけを抽出して聞くことができるからだ。極論を言えば、自分の最も聞きたい楽曲があるとき、その曲以外のすべてをスキップし目当ての曲を聴くことができるのが何よりもの特徴であり、この点ではライブハウスの時間的制約の問題をクリアしているとも言え、一見ブッキングライブよりも優れているような見え方も可能に思える。
 しかし、プレイリストにはこれまでの二つとは根本的に異なる、新たな問題が生じている。まず一つにプレイリストが作成されるときに参照される楽曲が元来別のプレイリストに所属するとき、その元来あったプレイリスト上の文脈を否定することにつながる。音楽アルバムを作成する場合、それを構成する曲の順番にはある程度の繋がりがある。例えばアルバムの一曲目にボーカルを入れないプロローグ的なインスト曲が設定されたり、曲間にインタールードが挿入されたりといった行為は少なからずこの曲順を意識しているがためだろう。しかしながら、この文脈を無視して楽曲を自らの文脈の中に入れ込むことは、元来そこに存在していた楽曲の文脈性を棄却していることになる。この点は先のブッキングと比較しても顕著である。ブッキングは1曲ごとにアーティストを変更することはできないが、プレイリストにはそれが可能なのだ。無論、例えばニコニコ動画におけるプレイリストのようにもともと楽曲ごとの文脈が存在しないも楽曲は、プレイリスト化されることによって新たな文脈を生み出すことにもなるため、その行為自体を批判することは決してあってはならない。しかし、キュレーションとブッキング、およびプレイリストの三者に共通点が存在することが明らかになった以上、グロイスの「偶像破壊」という指摘を一切無視するわけにはいかない。キュレーターの節で参照したように現代アート以降にキュレーターとアーティストとの境界線があいまいなものになっているのであれば、プレイリスト作成者もまたアーティストである。そのため、他のアーティスト同様、敬意をもって楽曲に接する姿勢が今後さらに要求されていくのかもしれない。
 他の二つと比較したプレイリストの決定的な差異について、もう一つの重要な点がある。それが複製芸術であるか否かだ。これはもはや誰の目にとっても明らかなことであり、もはやここであえて主張するほどのことであるのかは定かではないが、プレイリスト上で再生される楽曲は複製可能であるがゆえ、リスナーは自らの判断でプレイリストの特定の楽曲をスキップしたり、あるいはプレイリストを無視して好みの曲をリプレイしたりが可能になる。これまでの二つの「再文脈化」の行為と比較して、プレイリストの作成はその素材となる楽曲が複製されたものである。それゆえ、リスナーはプレイリストをどこでも流すことが可能だ。しかし、複製が可能なものであるがゆえに、やはり美術館やライブハウスでのみ味わえるような感覚を味わうことは不可能だ。これはいわば19世紀から20世紀にかけて活躍した哲学者ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」の概念に近いものである。彼は主著である『複製技術時代の芸術』の中で、写真や複製技術などの芸術作品には「アウラ」と呼ばれているものが凋落しているという主張を行った[iv]。この「アウラ」といわれるものの正体はベンヤミン以降の哲学者によって多く議論がなされ、ある種の「芸術に対して抱く幻想」であるという見解はあるものの、定説化はなされていない。しかし、アウラの正体をめぐるいずれの議論にも共通してあることは、複製芸術が非複製芸術に比較して何らかの観点で劣っている点があるということだ。作成されたプレイリストを流すということはすなわち複製を許可することであり、そこで流されている楽曲がすでに録音され、かつ複製されているという前提がある以上、すべてのプレイリストには「アウラ」の凋落が見られる。この点においては、プレイリストという文脈の示し方は他の二つと根本的に異なっているといえるだろう。 

5.おわりに 

 本稿では現代アートにおける「キュレーション」という行為をめぐっての問題がライブハウスにおける「ブッキング」という行為、および録音された音源の再生順を決定する「プレイリスト」の作成という行為に適応できるかを検討し、三者を比較検討した。その結果、キュレーションという言葉における問題としてグロイスが明確化した「偶像崇拝」の問題はブッキング、およびプレイリストの両者にも共通して示されていることが確認できた。この共通点に加え、ブッキングにはキュレーションには存在しなかった「時間」の概念が挿入されてしまうために、この行為にはアーティストのみならずにライブを観る観客側にも負担を強いることが分かった。また、プレイリストの作成という行為はブッキングに比べ「時間」の制約を受けず、その点においてはブッキングより優れているが、しかしこの行為はブッキングに比べ偶像破壊がより強力に行われてしまうこと、そして複製芸術であるがゆえの「アウラ」の凋落があること、の二つがあることが主張できた。
 2010年以降に「委任されたパフォーマンス」という言葉が世界的に流行し、美術館のパフォーマンス化が進行している中、美術館の展示方法も大きく変化し、ワークショップを映像として記録した作品などを流すなどの手法が増加している。この手法をとる際、美術館は映像を流すための空間の作成や、映像作品そのものが開始してから終了するまでの時間がどのくらいになるのかなど、これまで注意を向けなかったことに注意を向けなければならないだろう。その際に、ここで検討してきた「ブッキング」と「プレイリスト」の作成の手法と問題点は少なからず参考できるのではないかと考えている。美術館に演劇の手法が取り入れられる中、非常に演劇の性質を有している領域から派生したこれらの概念と言葉の価値が、今試されているのではないかと、そう考えている。 

#音楽 #ukiyojingu #vocanote #VOCALOID #哲学  

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[i] ボリス・グロイス「キュレーションシップについて」『アート・パワー』(石田圭子ほか訳、現代企画室、2017年)
[ii] ボリス・グロイス「多重的な作者」『アート・パワー』(石田圭子ほか訳、現代企画室、2017年)
[iii] ただし、近年の美術館においてパフォーマンスアートを美術館の中で行う展示や、美術館の外で行われたパフォーマンスを映像という形でアーカイブし、それを美術館で上映する形式での展示は増加している。この点においては、キュレーションはある種のブッキング的な要素をも考慮に入れなければならない。
[iv] ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(高木久雄ほか訳、佐々木基一解説、晶文社「著作集2」、のち同クラシックス、1999年)