現代アートとして初音ミクの「ネギ」を捉えてみる

はじめに

 本論は現代アートの一つの潮流である「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下SEA)」とインターネットにおける創造性との連関を論じることによって、SEAに対する一般的な批判を乗り越える一つの方法について考えたものである。SEAとは「社会的相互行為 [i]」が中核となって行われるアートの一形態であり、社会と協働することによって創造が為されるという点で、非常に新規的なアートの潮流である。これはアヴァンギャルド(前衛芸術)に端を発した芸術形式であり[ii] 、今日では地域活性のための一つの方法として用いられることが多い。2000年より開催されている「越後妻有トリエンナーレ」や2015年から開催されている「瀬戸内国際芸術祭」などはその実例だが、これらの地域のアートイベントの開催には開催地域の経済的地盤沈下や過疎化などが背景に存在することが多く、SEAはそれに対しての地域活性の手段とされている [iii]。

 このような、芸術を地域新興のための手段として用いる風潮に対し、文芸評論家の藤田直哉は「地域アート」と名付け、そこでは美術作品の質ではなく、来場者が飲食や宿泊によって地域に及ぼす経済効果や、お祭り的な楽しさが評価の基準になっていることを指摘した。この背景にはニコラ・ブリオーの『関係性の美学』の誤読と日本における特殊な需要があると、藤田は言う。1990年代にリレーショナル・アートによって理想化された「小さなユートピア」(藤田 2016)は、現代社会ではSNSや掲示板上で容易に生成されるようになっている。この結果、リレーショナル・アートはその方向を変え、「地域アート」として利用されるようになった。

 本論はこの藤田の表現から展開していく。仲間同士でのユートピアを生成するということがブリオーにおける「リレーショナル・アート[iv]」の、すなわち今日SEAと呼ばれる芸術表現の形態の一つの目標であったと仮定できるのであれば、SEAは決して「地域」的な対象を必要としないということにならないだろうか。藤田の述べているように、SEAが元来地域性を必要とせず、ブリオーの言う「小さなユートピア」がネット上で形成可能なのであれば、SEAがネット上でどのように形成されていくのかを考察する必要があるだろう。以上の仮定から、ネット上で生じた一つの「協働」というものを考察し、それをSEAの文脈の中に組み込むことを試みたい。

ソーシャリー・エンゲイジド・アートの歴史とその問題

 SEAについての先行研究は美学者ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』をはじめとして、近年においてはグランド・ケスター、クレア・ビショップをはじめとして多くの理論的考察がなされている。本節においてはこれらの先行研究を整理した蔵屋(2017)も逐次参照しつつ、その歴史を理解しながら同時に問題点を明らかにしていきたく思う。

 SEAが最も初めに議論として現れたのは1990年代の欧米であり、ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』がそのきっかけとなった。『関係性の美学』では近代において管理監督され、分断された人間のコミュニケーションを適度に回復させるものとして、芸術の意義が主張されている。芸術を「コミュニケーション」と置いたことによって、ブリオーの「リレーショナル・アート」の概念は非常に共同体思考なアート概念として認識されるようになった。ブリオーは次のように言っている。

近年、コミュニケーションは人間の接触を管理監督されたエリアに押し込めていて、そのエリアでは異なった製品の中で社会的つながりが組み分けられている。芸術活動はその役割として適度なつながりを獲得できるように奮闘して、ふさがれてしまっているコミュニケーションの方法を(一つか二つは)開こうとし、互いに離れている現実をつなごうと努力する [v]。

このように「絵画や彫刻を作るのではなく、人々が交流する場を作る、つまり人々の関係性を形づくる [vi]」アートとして、リレーショナル・アートは提唱された。美術批評家のクレア・ビショップはこに対し、SEAが芸術としての「美」なるものが二の次となり、政治的なプロパガンダとして利用されているということを指摘した。

参加型プロジェクトは、まさにそれが非芸術的であるために価値を見出されるという事実にもかかわらず、その比較と参照点はつねにコンテンポラリー・アートへと舞い戻るのだ。(…)こう述べたところで、参加型アートとその支持者たちを中傷したいわけではない。(…)この動向では、比較対象としてふさわしい社会的なプラクティスには目が向けられず、倫理的に一歩抜きんでていること(アーティストが差し出す協働のモデルが、よいか悪いかという度合い)を基準として、アーティストのプロジェクトは終始ほかのアーティストたちと比べられる[vii] 。

この引用において、二つの点が問題化されている。一つはSEA同士を比較して批評する際、その基準が「美的かどうか」ではなく「協働の形が倫理的にふさわしいか」になっている、という点である。そして、もう一つは「アヴァンギャルド」の芸術のはずのSEAが、批評基準を従来のコンテンポラリー・アートにゆだねてしまっている、という点である。これらは藤田による「地域アート」の問題で共通し、それが「美的評価に値するか否か」はそもそも問わないような芸術の形が、ここでも問題になっている。

 このように、ブリオーによって共同体思考かつアヴァンギャルドとして提唱されたリレーショナル・アートは、ビショップによって「マルチチュード」な芸術様式として政治的手法に位置づけられ、そしてそれを産業構造や地域振興の中に組み込んだ表現として、藤田の「地域アート」は位置づけられる。以上の流れにおいては、藤田の主張はSEAの問題点とも言える主張をそのまま継承している。だが、ブリオーのいう「ユートピア」が現実社会において「地域アート」として出現してした一方で、藤田が指摘した「ネット上で容易に形成される小さなユートピア」としてのリレーショナル・アートとはどのようなものだろうか。それを次節において考察していく。

ニコニコ動画という「小さなユートピア」での創造行為—初音ミクの「ネギ」を参照にして

 先の藤田の指摘を受け、本節は「『非』地域アート」としてインターネットにおける協働というものを考察していきたい。その一つとして、ニコニコ動画において協働で生成された初音ミクの「ネギ」というものを考えていきたい。ここから先は初音ミクの「ネギ」の紹介になるが、vocanoteを普段読まれている方にとってはとてもよく知っている内容だろう。必要に応じて文章は読み飛ばしてもらえれば幸いである。

⑴初音ミクの「ネギ」とは何か

 初音ミクは2007年8月31日に株式会社クリプトン・フューチャー・メディアによって発売された「ボーカロイド」といわれるソフトシンセサイザーの一種であり、これは株式会社ヤマハが開発した歌声合成システム及びそのアプリケーションの総称として存在している。これは元々「ソフトシンセサイザー」であり、極論を言ってしまえばただの楽器である。しかし、初音ミクに特徴的なのはソフトウェアの発売の際、同時に提示されたたキャラクター情報である。そこでは「最初に提示されたのは、三枚のイラストと、『年齢16歳、身長158㎝、体重 42㎏、得意なジャンルはアイドルポップスとダンス系ポップス』というシンプルな設定のみ」が提示された [viii]。

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初音ミクのイメージイラスト

 この背景としてはそもそも初音ミクはクリプトン・フューチャー・メディアにより展開された「キャラクター・ボーカル・シリーズ」というものであり、本来のシンセサイザーとしては付随されない「キャラクター性」がソフトウェアに付与された点がある。先の引用もその一つであるが、発売時に提供されたものはイメージイラストとわずかなキャラクターの設定のみであった。しかし、初音ミクという一つのシンセサイザーであるものに対してのイメージが先述した芝の指摘を大きく上回るものであることは言うまでもない。その一つの例として「ネギ」が提起できるだろう。

 これは今日における初音ミクの一つの象徴として多くのメディアで取り上げられるものであるが、先述の芝の指摘にもあるように当初提示された初音ミクのイメージとしては数枚のイラストと年齢や体重などであり、初音ミクに「ネギ」は元来ついていない。

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 「【動画】VOCALOID2初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm982882 より参照)

 

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『ロイツマ・ガール』動画の一部
https://www.youtube.com/watch?v=M3JVfeal0nY より参照)

 では、どのように初音ミクにおける「ネギ」は生成されたのか。その始原はソフトウェアの発表から4日後の2007年9月4日に投稿された「【動画】VOCALOID2初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」という動画である 。この動画はフラッシュムービーである「ロイツマ・ガール」というものをパロディしたものであり、初音ミクから等身を下げたデフォルメキャラの「はちゅねみく」を生み出し、元の動画同様にネギを持たせたことから「ミク=ネギ」のイメージの最も初めであるということは多く言われている[ix]。「ロイツマ・ガール」とはテレビアニメ「BLEACH」の登場人物のあるキャラクターがフィンランドのフォークカルテット・ロイツマの謳ったフンランド民謡「Ievan Polkka」に合わせて長ネギを回すのみの映像を見て、ニコニコ動画の中で音楽活動を行う「ボカロP [x]」がその民謡を初音ミクに歌わせた際、イラストとして初音ミクにネギを持たせたものが採用され、それが一つの「初音ミク=ネギ」という表象が形成されたと言われている。

 

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「【ネギ踊り】みっくみくにしてあげる♪【サビだけ】」の一部
(http://www.nicovideo.jp/watch/sm1417622 より参照)

 その後、表象としての「ネギ」の登場から約2か月後の2007年10月31日に投稿された「【ネギ踊り】みっくみくにしてあげる♪【サビだけ】」の爆発的ヒットによって「ミク=青ネギ」のイメージが広く浸透するようになる。それ以降、初音ミクは多くのメディアで「ネギ」がともに扱われることが増加し、またその提示が「ミク=ネギ」という表象を強化し、今日においてこのイメージはもはや「完全に定着 」している。実際に、初音ミクの「ネギ」はゲームやフィギュアといった動画以外のコンテンツにおいても構成要素として付与せれているものが多く、初音ミクの開発元であるクリプトン自身も「ミク=ネギ」をおおよそ認めているといえる状況になっている。

⑵「ネギ」の形成の構造的分析

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動画引用におけるネットワークの関係図
(濱崎,武田,西村 2010より引用)

 しかし、この初音ミクにおける「ネギ」という表象はどのような構造で形成されているのだろうか。これに関して、濱崎ら(2010)はニコニコ動画のコンテンツの生成を「ネットワークを介した協調的創造活動」と称しその内容を分析した [xii]。その中で初音ミクに関しての創作活動として以下の4つの要素を指摘している [xiii]。

a.作曲
…自身の歌をプロモーションする機会を望んでいるがその機会及び金銭の持たない人が初音ミクに自身のオリジナル曲を歌わせる
b.調整
…初音ミクの音声を自然の歌声、より良い歌声にするために調整を行う
c.作画
…初音ミクのイメージ図をもとに様々な情景や表情の初音ミクのイラストを用いて動画の画面として作成する
d.編集
…生成された初音ミクの動画を再編集して、新しい動画を作成する

彼らはこれら4つの要素がそれぞれ作用することによってニコニコ動画において「協働」が生じていることを示している。例えば「【動画】VOCALOID2初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」と言われる動画の作成においても、映像を作るもの(a, b)と音楽を作るもの(c)とで分担作業が生じているのがわかる。またここでの分担作業および協働の上で動画を投稿する際、ニコニコ動画では動画の説明欄で「協力者」や「引用元」を記入するのが一般である。すなわち、これによって別のコンテンツへリンクすることが可能になるということだ。これは濱崎らの「4つの要素」における(d)であり、「【動画】VOCALOID2初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」というこの動画自体が多くの動画の編集元となり、またこの動画も「ロイツマ・ガール」からインスパイアされているということも先述したとおりである。濱崎らはこれを「引用のネットワーク」と称した[xiv] 。

 濱崎らはこの「引用のネットワーク」を示すものとして上図を示した。図における左の点が「【初音ミク】みくみくにしてあげる ♪【してやんよ】」という動画、右の点は「VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」 を歌わせてみた」であり、二者の動画より新たな動画が生成された際にどのように引用関係があるのかを示したものだ。すなわち右の点にて「ネギ」表象が初めて出現し、左の点でそれが引用され、さらに多くの引用がされていることが指摘できる。ここからも記述できるように、ニコニコ動画における「ミク=ネギ」イメージの非常に速い速度での一般化の背景にはネット上で無数に存在しているコンテンツの連携が背景に存在していると言って過言ではないのである。

おわりに

 ここまで初音ミクにおける「ネギ」に関しての紹介を行ってきたが、これがSEAとどのように関係するのだろうか。本稿冒頭にて示したが、藤田は近年のSEAの動向として地域の振興を目標にした「地域アート」的な動向が多くみられることを指摘し、今日の日本におけるSEAを批判した。この背景として、本稿冒頭にて示したようにニコラ・ブリオーやクレア・ビショップが〈帝国〉に対抗するものとして、すなわち「マルチチュード」としてSEAを認識していたこと、およびこれに対して今日におけるSEAが「地域」に根差したアートを行っているという点で矛盾が存在していることが分かる。クレア・ビショップが行ったようにマルチチュードの芸術としてSEAを位置づけるのであれば、グローバルな社会の「帝国」化への対抗として国際的な協働による創造行為というものが「マルチチュード」であり、その具体的な例として本稿で扱った「初音ミク」は位置づけられるべきである。『関係性の美学』においてブリオーはリレーショナル・アートというものに関して「偶然の出会い」という表現を用いている。すなわち、リレーショナル・アートにおける表現の一つの「かたちform」の形成には元来であれば交差することのないようなものの交差がリレーショナル・アートを形成するということである。このブリオーの見解に関しては非常にマルチチュード的であり、インターネット世界における創造性そのものを指しているのではないだろうか。その一つの可能性の具体化として「ネギ」という表象はインターネット世界の中に存在しているのではないかと考える。

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[i] 「意味のあるインタラクション(双方向の行為のやりとり)、あるいはソーシャル・園芸地面ととは何かについて、完全に意見が一致しているわけではないが、ソーシャリー・エンゲイジド・アートを特徴づけているのは、社会的相互行為無に成立しないということである。(Helguera 2011=2015: 30. )」
[ii] Helguera 2011=2015: 30. 
[iii] 『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』の巻末に記載されている片岡真実による特別寄稿において、本稿にて記載した二つの地域アートイベントを「芸術の脱都市化」という表現とともに紹介している。
[iv] パブロ・エルゲラはSEAが過去にどのような表現をされてきたのかという表現の中に「関係性の美学relational aesthetics」を内包させている。(Helguera 2011=2015: 31. )またクレア・ビショップは『人工地獄』において「本書で俎上に載せられるプロジェクトは、ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』とほとんど無関係である(Bishop 2012=2016: 12. )」と置いており、その理論的な連関性はないとしている一方、エルゲラがソーシャリー・エンゲイジド・アートであるとした範囲と同じ内容の表現を「参加型アート」と置いている。
[v] Bourriaudt 1998=2016: 83. 
[vi] 蔵屋 2017: 202. 
[vii] Bishop 2012=2016: 42. 
[viii] 芝 2014: 3. 
[xi] 小山 2013: 10. 
[x] 「これは、バンダイナムコゲームスのゲーム『アイドルマスター』で、アイドルをプロデュースするプレイヤーがゲーム内で、『プロデューサー』と呼ばれた影響で、『アイドルマスター』関連の動画を投稿する人を『〇〇P』と呼んでいたことに起因する(小山 2013: 8-9)
[xi] 小山 2013: 10. 
[xii] 濱崎,武田,西村 2010: 158. 
[xiii] 同上: 161-162. 
[xiv] 同上: 161-162.