呼吸する都市—「都市」と〈都市〉について

1.はじめに

 鶴橋や京橋などは、典型的な大阪の下町だ。

 この大阪の下町には、独特の「呼吸」がある。これを「呼吸」と言ってしまうことができるのかは分からないが、それは都市そのものの「生活」である。つまり、それらは都市の醜さ、汚さをありのままに提示しており、そこにはパッケージ化された都市が存在しない。そのリアルさはまさしく、都市の「呼吸」を聞いているようでもあるだろう。

 この論考では、都市というものを「都市」と〈都市〉の二つに分け、それらを比較検討する。その具体例として、呼吸をともなう〈都市〉=大阪と、国際観光「都市」=京都の二つを考えたい。そして、最後に漫画『少女終末旅行』における、人間が滅亡した後に残された廃墟としての都市を対象に検討する。これらを通して、〈都市〉の「呼吸」とは何か、〈都市〉が〈都市〉であるためには何が必要かを考えたい。

2.「都市」と〈都市〉

 まず、全てに先立って本論で用いる〈都市〉と「都市」の二つの括弧の違いを明確化しなければならない。この二つは、「現象」であるか「物自体」であるかの違いで分けられている。カントは『純粋理性批判』の中で、人間の認識能力をもってしても理解できない「物自体」をヌーメノン、そして「現象」=我々の認識能力をもってして理解できるものをファイノメノンと呼んだ[i]。以前に私は「ボーカロイドの存在論」という論で、我々の認識では決して理解できない「現実界」に存在する「物自体」のことを指摘したが、これが本論における〈都市〉である。〈都市〉とはいかなる存在によっても表象されず、この表象されない何ものか——つまりは〈〉で囲まれた対象——に対し、いかに表象していくのかが現代思想のカント以降の流れである[ii]。この流れの最先端な潮流などは本論では触れないが、ここまでの前提は踏まえておく必要がある。我々は〈都市〉というものを理解することはできず、それはパッケージ化された「都市」という存在でしか理解することができないのだ。

 だが、我々が〈都市〉を理解できないのであれば、「はじめに」で述べたような〈都市〉の「呼吸」に対し、具体的な議論が一切できなくなってしまう。しかし、決して理解されない〈都市〉というものの輪郭がどのようなものであるのかは、我々が理解可能な「都市」を経由することで若干ながらも把握できないだろうか。無論、それが〈都市〉ではない以上は、我々は決して本質には至れない。しかし、理解不可能なものを理解するためには、まず現時点で我々が理解可能なものを経由しなければいけない。そこで我々に残されているのは、眼前に広がる「都市」だろう。

 我々は「都市」というものに日常的に関係し、その中で息をしているが、「都市」というものがいかなるものかに対しては、常に無意識的だ。我々は常日頃、自らが生きている生活環境にいちいち目を向けて生活をしてはいないことは、ある程度共感していただけるだろうか。それは我々の生活のありのままであり、素朴な実体験に基づく[iii]。だが、都市とは決して、それだけではない。例えば、国際文化観光都市である京都を考えよう。京都が世界有数の観光地として認知されていることは、もはや言うまでもない。京都という「都市」は観光客のために多くの表示に外国語が付され、観光地に行けば外国人観光客のための外国語可能なガイド案内が充実し、もはや飛び交う言語は日本語の方が少ないのではないかとも思えるような環境になっている。これは京都が日本の中で最も国際的な「日本」のイメージを表象している都市として認知されていることが原因だろうが、ここでは住人の生活といったものが都市ではなく、日本文化そのものの表象として京都という「都市」を産み出している。ここで筆者は「都市」と表現したが、これは我々の生活に基づいてはいないという意味で「都市」である。国際文化観光「都市」である京都は、国家や自治体の水準でも、観光地として「都市」開発された地だ。この「都市」は国際的なパッケージ化を受け、日本における「観光地」の代名詞として「都市」と化されたのだ。

3.人工的自然としての「都市」

 観光都市としての京都というのは、その特有の文化や技術を資本とし、それを海外の外国人観光客に向けて「商品」としてアピールすることでその価値を高めている。それは非常に「都市」的である。しかし、都市が「都市」として表象される度合いにも、いくつかの程度が存在する。国際文化観光「都市」として宣伝された京都は、まさしくその価値を強固なまでに固定化され、それゆえにパッケージ化された以外のイメージを「京都」という都市は纏うことがもはや不可能だ。

 それはまさに「人工的な観光都市」である。都市とは元来、人工物ではあるが、京都という観光「都市」はその人工的な都市のうえに形成された文化を上書きするように、より強固な「都市」のイメージを植え付けられている。これはまさに「自然としての都市」を上書きしたものである「都市」なのだ。「自然としての都市」という表現は非常に矛盾するだろう。だが、文化のそのままが表出する都市、つまりは「都市」としてパッケージ化されず、住民の生活が見える都市のように、そこには自然な生活がない。この点において、京都は徹底的に「都市」化されたのだ。

 この「都市」化は、いわば「名前を聞いて抱くイメージが思い浮かぶ都市」のすべてに共通しているだろう。そのため、筆者が冒頭で示した大阪の鶴橋や京橋といったいわゆる「人情あふれる大阪の下町」も、この「人情あふれる大阪の下町」そのものが「都市」として表出される。この点において、大阪と京都は同一の水準であるといえるだろう。しかし、大阪の下町と京都の観光地では、そのパッケージ化の度合いが明らかに違う。この違いこそ、筆者が冒頭で述べた「呼吸」ではないだろうか。それはつまり、その都市に暮らす人間の「呼吸」であり、生活である。観光地の問題として、観光地の近隣の住人の生活が観光客によって脅かされるということは多々ある事実だ。このことに対し、観光「都市」としてパッケージ化し、これをもって観光客にアピールしようとするのであれば、そこに本来住んでいるはずの住人の「呼吸」は捨象されてしまう。京都の場合は、まさしくそうだろう。確かに清水寺や金閣寺はそれ自体で文化的価値を持つだろうし、京都が世界遺産に登録されているという事実も京都という都市の世界的な価値を証明している。だが、清水寺や金閣寺、そしてその他多く存在する世界遺産には、その都市に住む住人の「呼吸」はない。この点において、京都と大阪は明確に異なっている。そして、京都にはなく大阪には存在する「呼吸」こそが、ありのままの存在、我々がそのすべてを完全に把握できないという点では〈都市〉ではないだろうか。無論、〈都市〉そのものは「物自体」のため、それが〈都市〉であるということはできない。だが、すくなくとも「都市」と〈都市〉の二つの違いは、ここで検討したような京都と大阪の二つに見て取ることは可能だろう。

4.「呼吸」に人間は不要である

 さて、ここまでの展開によって、「都市」と〈都市〉の違いの一つの仮説として、都市が「呼吸」をしているということを考えた。しかし、この「呼吸」とは一体何か。そして「呼吸」がない「都市」である京都は「死んで」いるのか。これを考えるため、文字通り「死んだ」都市について考えてみよう。そもそも、「死んだ」都市と言われてもそれが一体何かを容易に考えることはしにくいだろう。「死んだ」都市として想定可能なものはいくつか存在するが、筆者は「死んだ」都市として真っ先に思い浮かんだのは『少女終末旅行』のような終末世界だ。そこでの都市が「死んで」いるのかどうかは分からないが、「生活」がないという点では死んでいるのかもしれない。では、一度これを例にして考えてみるのもいいだろう。

 作品の詳細な解説は行わないが、大まかな話を紹介すれば、舞台はおそらくは戦争——と言っても、作中では暗喩でしか伝えられない——によって人類が絶滅し、人間がもはやいなくなってしまった階層都市の中で、主人公のチトとユーリが生き残りの人間と物資を探し旅をするというものだ。2人の少女がさまよう都市は、かつて高度に発達したものの、戦争によってその機能の大半が失われた都市であり、また文化価値の喪失も著しいものとなっている。そのような絶望的な状況の中でも、階層都市の上層に文化インフラが充実していることに可能性を求め、2人の少女は上層に向かう。詳細を語ろうと思えばいくらでも可能だろうが、おおよそはこのようなものである。

 この物語では一貫して都市の衰退した状況が描写されるが、その都市がかつてどのような都市であったのかについての描写は少ない。そのため、明確なことを言えないが、少なくとも作中では「階層都市にもかつては人間が暮らし、そして戦争によって崩壊した都市の中で多くの人間が暮らしていたこと」は描かれている。そのため、舞台となる階層都市もかつては〈都市〉としての側面を有していたといえるだろう。作中にないものについて明確に語ることはできないため、都市が何らかの形で「都市」として表象されていたのかは分からない。だが描かれている都市にかつて人間が暮らしていた事実さえ分かれば、そこには少なからず〈都市〉があったことは明示できる。

 しかし、彼女たちの歩く終末世界は、戦争があったがゆえに終末化している。作中の至るところでも、戦争に関する描写(重火器や戦車、戦闘機は無論のこと、2人が乗っているテッケンクラートもそれを想起させる)がある。このことは、都市が戦争の舞台となっていたということを明確に示しているだろう。つまり、戦争以前の状態がどのようなものであったのかはさておき、戦時中には都市は戦争を行うための一種の戦争の拠点、いわば要塞として、かつて「都市」化されたのである。

 だが、戦争によって要塞化され、要塞「都市」としてパッケージ化された「都市」は、終末を迎えることによってその価値を失う。「都市」がパッケージ化、ある表象が行われる理由として、パッケージを見せる対象が必要である。それは前節の観光「都市」でも、要塞「都市」でも違わない。しかし、終末世界において、パッケージ化の必要はなくなっている。なぜなら、そこには対象となる存在も、そもそもパッケージ化する人間もいないからだ。何も残らなくなった都市は、やがて「都市」としてのパッケージを失っていく。その先に残るのは、人間がはいないが、れっきとした〈都市〉である。そこにはきっと「呼吸」があるだろう。〈都市〉の呼吸とは、そこに人間の「生活」が現前している必要がなく、「痕跡」があればいいのだ。

5.おわりに

 都市とは人間によって形成され、人工物によって構成されている以上、自然とはかけ離れている。しかし、〈都市〉とは「人工物を含めた自然状態」であるといえよう。それは都市の「呼吸」であり、それを構成する住人による「生活」だ。これと対置されるのが「都市」であり、これは外部へのパッケージ化によって、「呼吸」を失った状態、つまり「窒息」した都市である。だが、終末世界における都市は、人間がいないことによって「呼吸」が止まっている。つまり「窒息」している。しかし、それは「窒息」のように思えるが、その実、人間によるパッケージ化を免れているという面においては、非常に〈都市〉であり、つまりは「呼吸」をしている。

 〈都市〉は「呼吸」をするが、それは決して生活する住人の呼吸ではない。「呼吸」とは、そこに人間が現に存在するか否かに関せず、ありのままの「痕跡」がそこにあることだ。その痕跡こそが「呼吸」であり、それによって「都市」は〈都市〉となる。ここで検討した三つの都市はそのそれぞれが全く異なり、加えて最も最後の終末世界は実在すらしない。だが、ここで検討した都市のいずれもが「都市」であり、〈都市〉である。そして、これら三つの違いは「呼吸」によって区別される。

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[i]イヌマエル・カント,1787,『純粋理性批判』.
[ii]このことは千葉雅也『意味のない無意味』(2018年,河出書房新社)でも詳しく述べられている。
[iii]後述するが、筆者はこのことを〈都市〉と言っている。