キュレーション・ブッキング・プレイリストへの補論—「消費すること」と「聴く」こと

 

 
 先日、立命館大学は京都衣笠キャンパスにて、音楽プロデューサー・ベーシストである亀田誠治氏が訪れ、特別講義の形で授業をされた。本文章はそれに関係したものであり、かつ先日このブログに掲載した小論『キュレーション・ブッキング・プレイリスト』とも関連する。そのため「補論」と置いた。補論は「補う」ものであり、それはつまり前回の議論では不十分だった部分があったがため、本論で補うというものだ。私がここで「補う」べきだと思ったもの、それは「ストリーミング」である。

 

 

 

 亀田誠治氏についての紹介はもはや言うまでもない。実は氏は定期的に立命館大学での特別講義を開催しているようだが、その内容は毎年少しずつ異なっているらしい。本年は何かというと「ストリーミング時代の到来——多様化する音楽の楽しみ方」というものであった。「ストリーミング」とはいわゆるGoogle Play MusiciTunes MusicSpotifyなどの音楽配信サイトのことを指している。これらの配信サービスはここ数年で世界的なシェアを大きく伸ばしている一方、日本においてのシェアが非常に少ないことを、氏は強調されていた。アメリカの場合、CDやレコードなどの売り上げが下降する中でも、ストリーミングのシェアがこのCDの売り上げの低迷をカバーする以上の役割を持っているようだ。その一方、日本はどうなのかといえば、ストリーミング再生が少しずつシェアを伸ばしてはいるものの、CDの売り上げの低迷をカバーしうるほどまでには成長していない。そのために、アメリカに次ぐ世界2位の音楽市場である日本にも関わらず、市場規模が縮小していることが問題となっている。

 

 ではなぜ、日本ではストリーミングは受け入れられないのか。その理由として、氏は二つあげた。まず、「自分の聞きたいアーティストがストリーミング配信をしていない」からである。そこには、いわゆる「握手券チケット」などの特典のためにCDを複数枚買っていただきたいといった、作者や事務所の意図が背景にある。別の理由としては、インディーズバンドなどの有名でないアーティストはそもそも楽曲を公開できず、CDで買う以外の方法を持たないことなども想定できる。

 

日本でストリーミングが受け入れられないもう一つの理由として検討されたのが、「毎月支払う金額と照らし合わせると採算が合わない」ということだ。ストリーミング再生はおよそ毎月1,000円ほどの費用が掛かるが、例えばそれほど音楽を聴かないライトユーザーや、自分の好みに沿った特定の曲を集中的に聞くような人にはストリーミングによって毎月支払われる費用は十分すぎるほどに高いかもしれない。

 

だが、以上のような問題を踏まえてもなお、亀田氏はストリーミングが今後の音楽業界を支えていくものになると、今後の音楽業界の変化に期待を抱いている。日本ではおよそ毎月1,000円ほどの費用でストリーミングを利用できる代わりに、絶対的な曲数が少ないのが今日的な問題だ。これに対し、世界的な平均では月に2,000円~3,000円ほどの費用がストリーミングを利用することに必要となるが、その代わりにストリーミングで聞ける局数が莫大である。将来、ストリーミングのシェアが日本の中でどれほどの割合を占めるようになってくるのかは不明であるが、亀田氏は今日の日本音楽市場を「ストリーミング黎明期」であると言っていた。これから値段が少しずつ引き上げられるにつれて全体的な曲数が格段に増え、より我々の身近なものになることを期待しているのだ。

 

 

 

以上の文面からも把握できるように、氏はストリーミングに対して否定的ではない。それどころか、むしろ賛成し、日本におけるストリーミング市場をより拡大していきたいという主張が強い。しかし、音楽業界の今日と正体においてストリーミングが大きな可能性を有しているという主張のもと、そのリスクを十分に検討することなくこれを推進することは避けなければならない。では、どのような問題を考えることができるのか。それは氏の講義の中でもいくつか検討されていたが、より美学的な視点から考えることは可能だろう。その手がかりに、以前書いた小論「キュレーション・ブッキング・プレイリスト」を参照してみたい。

 

そこではボリス・グロイスの「キュレーションによる作品のイメージが破壊される」という主張をベースに、ライブハウスにおけるブッキングという行為はキュレーション的な問題も内包されることを示した。これに加え、音楽が「時間性」をともなうものであるがゆえに、観客にもブッキングスタッフの偶像破壊行為に付き合わすことを強制する。そのため、ブッキングスタッフはキュレーターよりもより偶像破壊性が強いものである、ということを示した。この「作品そのものに内在するイメージ」を破壊し、文脈化する行為がキュレーションとブッキングの両者には内在されるが、最後の「プレイリスト」もこれと同じような力を有している。つまり、ブッキングスタッフのような偶像破壊的な行為を複製技術である音源データを用いることによってより簡単に行えるようになる点において、プレイリストの作成は非常にブッキングスタッフ的な偶像破壊行為に近しい。もちろん、プレイリスト上で再生されるデータはあくまでもスキップ可能な音声データであり、観客にそれを強制的に聞かせるなどといった性質はそこにはない。だが、それに準じた力は有しているといってもよいはずだ。

 

このプレイリストの力は今日的な音楽業界の動向、つまりは「ストリーミング」のシェアの拡大と非常に大きな関係を持っている。ストリーミングを使ったことがある方ならご存じだろうが、それらには「ドライブ時におすすめ」や「通勤時におすすめ」「卒業ソング」などのように、あらかじめ提供者側によってジャンル化され、プレイリストとしてすでに作成された一連のものがある。だが、それらのプレイリストに内包されている一連の曲たちは当然ながら、元来発表されたアルバムなどに組み込まれたものたちだ。そしてそのアルバムの流れを提示したのは紛れもなく、アーティスト側だ。以前の話でも言及したことになるが、ストリーミングによって音楽を聴くことはすなわち、音楽そのものを「消費」する行為につながってしまい、真の意味での音楽を「聴く」行為をおろそかにしかねないのではないだろうか。プレイリストの作成により「ドライブ時に聞きたい音楽だけを聞く」といった消費的な音楽の流れが生まれつつある中、「その楽曲を作成したアーティストがどうしてアルバムの〇曲目にこの曲を入れたのか」といったアーティストに対面するような「聴く」行為をすることは、これから先どのようになるのだろうか。