パフォーマンスの労働者化とニコニコ動画の創造過程

 

1.はじめに 

 

 基本的に本ブログはtwitterにとって代わられたてことで役目を失っていたが、最近のつぶやきの中から少し文章をまとめ上げ、ここに掲載したいと思う。

 

 本稿は近年のパフォーマンス論の問題とニコニコ動画における協働的な創造行為とを連関させて検討することによって、近年のパフォーマンス論の重要な概念である「委任されたパフォーマンス」とニコニコ動画の協働的創造には実のところ非常に近い構図があるのではないかという仮説を展開する。しかしながら、この論考の表題に「パフォーマンス」と「ネギの生成過程」という言葉を加えたが、表題だけ見てもこの二つがもともと全く関係のないものであることは明確だ。ここで掲げる「パフォーマンス」とは現代アートにおける演劇やダンスなどを創造していただくとわかりやすい。これに対して、「ネギの生成過程」とはまさしく、動画投稿サイト「ニコニコ動画」におけるボーカロイド「初音ミク」の一つのアイテムとして付与されたあの「青ネギ」のことだ。

 

 では、これら二つが一体どのような関係を持つのだろうか。まず「パフォーマンス」の文脈から追っていきたい。そこではパフォーマーの「労働者化」が語られる。

 

2.パフォーマンスの「労働化」

 

 先の節でも主張したように、表題に掲げた「パフォーマンス」とはいわゆる現代アートにおけるパフォーマンス論のことであり、本節では現代のパフォーマンス論における問題とそれに対してどのような解決策があるのかを軽く紹介する。これらの議論は2010年以降世界的に活発化しており、日本でも特に2011年の震災以降、芸術と政治、社会との連関を論じる際にパフォーマンス論が非常に重要な役目を負っているということが主張されてきた。20188月には『美術手帖』の特集「ポスト・パフォーマンス」という名前の特集が組まれ、この中でも今日における多様な演劇やダンスの在り方についての検討がなされてる。本稿ではこの特集に掲載された田中功起氏によるエッセイ「パフォーマンス以後のパフォーマティヴィティについて」を中心に、近年におけるパフォーマンス論の問題について紹介したい。このエッセイは、パフォーマンスアートにおけるアーティストが演劇を行う人間ではなくなり、演劇を行う人間に対して指示を出す存在へと変貌したという問題を提示し、これが今日におけるパフォーマンスの大きな特徴であり、なおかつ問題であるとしている。氏は美術批評家のクレア・ビショップが書いた『人工地獄』を引用しつつ、以下のように述べている。

 

「委任されたパフォーマンス」の状況下には主体がない。大量に投入された入れ替え可能な身体は、工場の歯車として働く、かつての労働者と同じだ。(…)ビショップは「人工地獄」のなかで「半ば台詞に基づく彼らのやり取りは不意に、どこか個性に欠けて暗記されたものと感じられるようになる」と書いている(田中 2018)

 

 「委任されたパフォーマンス」とは美術評論家クレア・ビショップが著作『人工地獄』の中で提示したものだ。彼女はこの言葉を用いることによって、近年のパフォーマンスアートが「アーティスト自身」によって行われるものではなくなり、アーティスト自身とは関係性を持たない「第三者」がアーティストの指示を受けた形で、すなわち「委任される」形でパフォーマンスを行っていることを指摘した。この「委任されたパフォーマンス」はアーティストがアート・ワールド(美術館や芸術市場など、芸術空間を形成する空間)から外に行き、社会と関係を持つことによって社会と協働するパフォーマンスの可能性を開き、その一方で芸術の中で内包された政治性、社会と芸術との距離感などの新たな議論をも生じさせた。このような「委任されたパフォーマンス」によって行われる新たなパフォーマンスの形式は「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と言われている。

 ではこのような「委任されたパフォーマンス」の形成に対しての問題として何があったのか。そもそも、パフォーマンスアートとはパフォーマンスであり、つまりは演劇である。そして、演劇が行われる会場は常に「劇場」であった。この空間は一般的にステージ上での役者に注目を集められるように、壁やステージを黒塗りにすることが多い(映画館をイメージするとわかりやすいだろう)。このような空間を「ブラック・ボックス」というが、これに対して美術館、特に現代アートにおけるギャラリーは四方を白の壁に囲まれている。これはアメリカのニューヨーク近代美術館(MOMA)によって作られたスタイルで、これは先のブラック・ボックスに対し「ホワイト・キューブ」と称された。

 以上の前提から、論をもう一度整理しよう。ビショップはパフォーマンスがかつてのブラック・ボックスからその外部、そしてホワイト・キューブに舞台を移すときに、何が問題になっているのかを明示化した。すなわち、元来パフォーマンスを行う立場にあったアーティストがその立場におらず、その代わりにアーティストによって雇われた労働者がパフォーマンスを行っているということだ。このことはブラック・ボックスとホワイト・キューブを比較することで明確化する。演劇は常に演劇時間が設定されており、開演と終演の時刻はある程度固定されている。これに対し、美術館の環境は開演も終演もなく、開館時間から閉館時間までの長い間にわたってパフォーマンスを続けなければならない。この環境において、アーティストが長い間パフォーマンスを行うことは体力的にも困難だ。そこでアーティストはパフォーマーとなる労働者を賃金で支払い、労働者に指示することによって、自らの芸術表現を労働者であるパフォーマーにさせるのだ。そして、時間を区切って交代を入れることで、ホワイト・キューブ上でのパフォーマンスは半永久的に可能になる。そこでは、パフォーマンスを行っているものはもはや「労働者」になってしまい、そのためにアーティストとパフォーマーの間には非常に契約的な関係が置かれる。

 このような問題は現代のパフォーマンスにおける大きな特徴であるとしているが、その一方で元来の創作者であったパフォーマーにとってはその立場が失われ、労働者にまで立ち位置を低下させてしまった点において非常に由々しき問題だ。これに対して、田中氏はパフォーマーが複数集まることによってそれが「集団」として権利の有用性を主張することを強調した。

 

人々は集まり、その集まりが呼びかけとなり、さらに多くの人々を集める。集合する身体を見た誰かが、そのパフォーマティヴィティに誘われさらに集まっていく。身体はそこに集まるだけ生の権利を表明していたわけである。(田中 2018)

 

すなわち、アーティストによって雇われた労働者であるパフォーマーが集団となる、それ自体がアーティストの表現とはまた別の意味を有することがあるのではないかと、氏は主張する。労働者が集合していることがまた新たな労働者を誘い、それが大きく集合することによって一つの意志のようなもの、つまり「生の権利」を表明するというこの主張は、パフォーマーが労働者となり果てた今日のパフォーマンスアートにおけるパフォーマーにとっては大きな可能性になっているのだ。

 

3.ニコニコ動画における「委任されたパフォーマンス」と「生の権力」

 

3.1.委任されたパフォーマンスについて

 

 前置きが長くなったが、以上がパフォーマンスアートに関しての議論だ。では、この議論から一体何が得られるのか。そもそも、パフォーマンスアートとインターネットは直接結びつかないのは自明だ。また、先に示した田中氏のエッセイが収録された美術手帖の特集はその副題に「美術、演劇、ダンス」と書かれ、ここにはもはや音楽の視点からでも入ることは難しそうである。そこで、本稿はより抽象的な次元から検討することによって、パフォーマンスとニコニコ動画における協働的な創造行為の共通点を見出すことが可能であると考えている。それはつまり「集合体」である。

 初音ミクの「ネギ」が何かに関しての説明はここでは大まかにのみ説明するが、2007年にボーカロイド「初音ミク」が発売されて数日の後に「VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」という動画が流行し、動画中で初音ミクをデフォルメしたキャラクター(はちゅねミク)がネギを振っていたことから「初音ミク=ネギ」の定式の形成が始まり、今日においてはもはや完全に初音ミクの一つの「象徴」として定着している。しかしながら、初音ミクとネギは言わずもがな、元来無関係である。ではなぜ、これほどまでに広まったのだろうか。本稿ではその理由にオリジナルの意図を超えた範囲で生じた「委任されたパフォーマンス」と、表象が委任によって再生産されていく一方で生じている「生の権力」が原因であると考えている。

 「ネギ」の生成が「委任されたパフォーマンス」であるということは多少無理があるだろう。しかし、「初音ミク=ネギ」というイメージが定着した理由として、幾重にも重なって再生産されてきた「初音ミク=イメージ」を象徴づける創作が多くのバリエーションで展開されている。つまるところ、N次創作だ。ニコニコ動画はN次創作の中で、幾重もの動画の引用ネットワークを生成してきた。そしてその引用ネットワークが構築されるほど、そのオリジナルに相当する動画はその存在を大きなものにしている。「初音ミク=ネギ」の表象はまさしくこのような形で行われてきたものであった。

 この前提をもとに、「委任されたパフォーマンス」とどのような関係があるのかを検討しよう。前の節で示したように、委任されたパフォーマンスにおける「労働者」は創作を行わず「委任されたパフォーマンス」を行うのみである。つまりパフォーマーに創造性はないのだ。これに対してニコニコ動画における引用ネットワーク創造(ここでは「初音ミク=根ネギ」の表象の形成を検討する)というのは無論、委任されてはいない。したがって、ここには明確な関係性は一見存在していない。しかし、これら二つの現象に共通していることは明らかに存在する。それは「再生産」である。「委任されたパフォーマンス」では労働者はアーティストに指示に従って「再演」を行い、「初音ミク=ネギ」のイメージ形成ではN次創作者がオリジナルを受けてイメージの「再生産」を行う。この点においてこれら二つは共通している。いわば「初音ミク=ネギ」のイメージは、そこに受動的な形の有無で違いはあるものの、結果的には「委任されたパフォーマンス」と同じイメージの再生産を行っている。「初音ミク=ネギ」は不特定多数の人間による「委任されたパフォーマンス」の再演によってその表象が増強された結果、ミクの「ネギ」は一つの初音ミクを表象するイコンとしての力を有した。そしてその最もオリジナルに存在するのは「初音ミク」と「ネギ」を結び付けた「ロイツマガール」だ。すなわち、初音ミクの「ネギ」に関するあらゆる創造行為は「ロイツマガール」のパフォーマンスを結果的には「委任」したことになり(この創造行為は決して「委任」されていないなど、検討すべき点はまだ多く存在するが)、それが幾千も行われることによって、イメージはより強固なものになっていった。この過程はまさに、アーティストが労働者によって表現しようとしているパフォーマンスに非常に近いものが存在しないだろうか。

 

3.2「生の権力」について

 

 以上の見解においては、初音ミクにおけるネギの生成、いやそれ以上にあらゆる協働的な創造が「委任されたパフォーマンス」の再演という結果によって、その再演を行うパフォーマーよりもオリジナルを作成している「アーティスト」がその権威を強めるという構造が見出される。このような見解に立ったとき、ビショップの「委任されたパフォーマンス」の議論はパフォーマンス論で展開される数年前に、すでにニコニコ動画のみならず多くのN字創作の議論の上では生じていたものであったといえる。だが、「委任されたパフォーマンス」においてパフォーマーはもはや労働者であり、アーティストではない。その一方で、ニコニコ動画における動画引用ネットワークの一つ一つは個別の動画であり、その動画を生成するすべての人間が決して労働者ではない。これまでの文脈から考えれば、それらはアーティストである。例えば「ロイツマガール」から影響を受けて作成された「みくみくにしてあげる♪」の動画は「ロイツマガール」から「ネギ」という表象を委任されているが、完全に「委任されたパフォーマンス」を遂行しているわけではない。むしろ、「初音ミク=ネギ」というイメージ以上のなにも「再生産」はしていないだろう。そこには「差異」が存在しており、その「差異」が蓄積することによって多様性にあふれた動画環境が形成された。

 この状況は先に紹介した田中氏におけるパフォーマーの「労働者化」の議論と大きな関係がある。先に田中氏の引用をしながら、労働者であるパフォーマーが群がることによってそれがアーティストの意図とはまた別の、社会的な意味が生じているということを検討したが、この労働者が集合することによって生じる「生の権利」はアーティストの意図を超えた、いわば「差異」そのものなのではないだろうか。無論、この構造はニコニコ動画における創造行為と比較し対象が個人であるか、集団であるかといった問題がまだ残るだろう。しかしながら、この集団化による差異の可能性の生成ともいえる現象は、ニコニコ動画における創造行為を参照することでその可能性がより具体的なものになることはないだろうか。本論の検討はあくまで仮説の閾を出ないが、その可能性を示していくことには一つ大きな意義があるだろう。

 

4.おわりに——ニコニコ動画を超えてパフォーマンスを行うこと

 

 本稿では現代アートにおけるパフォーマーの労働化と、ニコニコ動画におけるN次創作の検討を行なってきた。しかし、このパフォーマンスと動画メディアの二つは元来関係するものではなく、まったく無関係なものであるということはもう一度確認する必要があるだろう。では、この異なる二つの領域をより具体的に検討することはどのようにして可能か。その一つの模索として、ニコニコ動画の外部にてニコニコ動画的なパフォーマンスを展開するということがいえないだろうか。

 私はこれまでニコニコ動画での動画投稿を行いながら、同時にライブハウスでのパフォーマンスを行ってきた。そこでは作曲者と演奏者の二つの人間がおり、互いの協力によってパフォーマンスが完成するのだが、演奏者は作曲者から完全に委任を受けているので、これは「委任されたパフォーマンス」であるといえるのかもしれない。いや、それだけではなく、多くの協働的に創造された芸術といえるものは、等しく一人の表現者によって「委任され」ているのではないか。しかし、この問題の解決は簡単だ。演奏者が群れをなす、すなわち個人ではない集団になってパフォーマンスが行われることによって、新たな価値が生産されているというのが、本稿で扱った田中氏の主張であった。

 これは実際、ニコニコ動画という環境の外部に出てみることでその実感がわくものであるのかもしれない。それはつまり、いずれの環境にせよ「協働」が働く一方で、その協働性がリアルタイムで出現するのが実際のパフォーマンスなのだ。そこには、おそらく田中氏の言うような集団性、ともにその場所に存在するが故の「生の権力」が露出しているのかもしれない。