メンヘラ考—その実態をめぐって

ブログは突如として再開される。

以前にfacebookに投稿した文章の再掲。

 

「メンヘラ」とは何だろう?


精神的に問題がある、抑うつ、他者への依存…もろもろありそうな気がする。しかし、そもそも「メンヘラ」という言葉が作り上げられた理由はなぜか。
そもそも「メンヘラ」といわれる精神的傾向が一つの世俗的な心のジャンルとして認識されているがために、近年の社会の中(おそらく若者文化であるものの)で「メンヘラ」という言葉が認識されてきているはず。でなければ、これほど社会の中で「メンヘラ」という言葉は流行らなかっただろう。

 

であれば、メンヘラが形成される理由は個人的なものではないだろう。
メンヘラという言葉が形成され、社会の中で精神的な「タイプ」として類型化され、自身がその部類に位置していると認識されることによって、その個人の中に存在するテンプレ的イメージに関係ない「メンヘラ」のイメージが個人に暴力的に当てはめられる。
その時に、暴力的にも分類化されたメンヘラたちに弁明の余地もないのだろう。

最も恐ろしいのは、そのメンヘラという言葉は類型的なものであることであり、まさしく心理学における類型論の問題がそのまま浮き彫りになっているということだ。
そんな理不尽で「メンヘラ」という分類を当てはめてしまうことは、その人の背景に存在する人生や尊厳を見ないことにもつながるだろう。

 

では、メンヘラたちに何ができるか。
メンヘラと分類されることの問題の一つに、メンヘラが社会的に問題のある人間と分類されていることにあるだろう。
だったら、そのイメージを打破することがメンヘラにとっての救済だ。論理的に考えた際、それが最短経路のはずだ。
もちろん、その行動を個人が起こしたとて、それはもはや「メンヘラ」という言葉の持つイメージから個人は離れるかもしれない。しかし、「キャラ」化され類型化されることから逸脱するためには、それが必要なのだろう。メンヘラである自分を受容し、そのうえでメンヘラであることから逃れることで、メンヘラは改革されるのだ。

インターネットがこれほどにまで発展し、事実が崩壊したポスト・トゥルース的な様相が漂う中、その実態も理解不可能なメンヘラという概念がフワフワと浮いている。
そんな中、メンヘラという枠組みへの押し付けから逃れるためには、自らのメンヘラ性を一度肯定したうえで、それを受け入れなければならない。

 

まずは「自分はメンヘラである」ということを肯定しなければ、何も始まらないのだ。