視覚文化とその歴史について

不定期開催の読書録。

 

 

今回はこちら

http://filmart.co.jp/books/composite_art/2014-6-24tue/

『視覚文「超講義』 石岡良治|著 2014年06月26日

 

本書はタイトルにもあるように一般的な視覚文化に関して講義形式をもって理論を解説していく本だ。消費社会として消費されてきた多様な文化の内でとりわけ視覚文化、例えば映画やアニメ、ゲームなどの媒体を対象として主張を行っている。

 

 

本書は全部で五回形式の講義に特別対談として國分功一郎氏との対談を含めた内容である。基本的には各章のタイトルが「カルチャー/情報過多」「ノスタルジア/消費」「ナラティヴ/ヴィジュアル」「ホビー/遊戯性」「メディエーション/ファンコミュニティ」となっているように一つ一つは独立した章立てになっており、それぞれ別のものを扱うという視点に立っている。しかし、各章を通読することによって、ある一つのテーマが見えてくるという構造になっているのだ。

 

各章に関しての概説としては「カルチャー/情報過多」においてハイカルチャーおよびサブカルチャーの様相に関しての記述、「ノスタルジア/消費」において『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を題材とした過去の記憶体験としての「ノスタルジア」に関して、「ナラティヴ/ヴィジュアル」において視覚文化においておおよその範囲において必要であった物語性に関して視覚表象はいかにして物語を表現したのかを言及する。「ホビー/遊戯性」においては視覚文化においてハイカルチャーおよびサブカルチャーとの中間として存在している「趣味=ホビー性」に関しての考察を含ませながら視覚文化が他分野の教養を含ませながらそれを「ホビー」として拡張していったかに関しての言説を行っている。そして「メディエーション/ファンコミュニティ」の章において現代の、とりわけインターネットおよびコンピュータの発生によって進歩した技術において視覚文化がどのように変容していったのかに関しての記述を行い、本論を終了している。私が本書を読んだときの大まかな構成はこのようになっていると考えた。

 


今回本書のことを書くにおいて私は先に各章において何が書かれていたのかに関して自分なりにまとめてみた。というのも、本書は各章において扱っているテーマが異なるのであるが、それらを通じて読み込んでみることである一つ、本書が全体を通して主張している事柄が見えてくると考えたからである。それは本書が何回もこの本の中で語っており、おそらく最も出てきているようにも感じる言葉だろう。2章のタイトルにもなっている「ノスタルジア」という言葉だ。

 

「ノスタルジア」という言葉に関して、ちょうど前回『ネトウヨ化する日本』で扱ったところである。私はそこには「基本的信頼感=母性」の欠落が見受けられていると記述した。今回の『視覚文化「超」講義』においても同じものが存在していると考えられる。「ノスタルジア」に関してもっと扱う2章においても著者は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』においてデロリアンが1950年代と80年代、および2010年代を行き来するデロリアンをノスタルジアの象徴として考察していた。1980年代の人間にとっては1950年代のタイムスリップした世界はかつての失われた「ノスタルジア」そのものなのだろう。やはりそこには失われたものに対する哀愁の感情が見受けられ、かつての精神的基盤の喪失による不安およびその基盤を新たに形成するために「基本的信頼感」を求めているという、作品の裏に表れている社会の情勢が見受けられはしないだろうか。これは現在の「ネトウヨ」化が進んでいる社会においてなお健在であり、むしろインターネット社会の形成によってその傾向が増しているようにも見られる。

 


「ノスタルジア」に平行してもう一つ、私が確認しておきたいことがある。それは本書の随所にて取り上げられていた「ハイカルチャー」および「サブカルチャー」に関してだ。主に4章「ホビー/遊戯性」の章において重点的に取り上げられていた内容であるが、それはかつてから対立軸として存在していたと本書では言及している。その中間にある存在として「ホビー」に関して本書は読み解いていったのだが、果たして「ハイカルチャー」と「サブカルチャー」は現在も対立の様相を見せているのだろうか。私はハイカルチャーは古来より存在していた芸術学の分野であり、サブカルチャーはハイカルチャーに反抗する形で登場したものも多い。マンガを例にして考えてみた際も、そこには少なからず風刺が存在している。

 

しかし、サブカルチャーは時間の経過によってゆくゆくはハイカルチャーとして認識されてゆくのではないだろうか、というのが私の考えだ。現在においてはアニメやマンガ、そしてゲームに関しても大学という文化研究の施設で研究対象としての研究が行われている。すなわちそれらは美術をはじめとしたハイカルチャーへと少しずつ移行しているのではないか。本書3章においても視覚文化をどのように大学で扱うのかに関しての議論が書かれている。

 


ここで以前にも引用したドラクーリデスの「継承的無意識」の概念を引用したい。分析心理学の理論においては我々の無意識には個人単位の「個人的無意識」および人類全体が保有する「普遍的無意識」の二つが存在している。しかしその個人的無意識および普遍的無意識を明確に分けることは我々にはできない行動である。それを踏まえ、彼は二つの中間に「文化単位の無意識=継承的無意識」を設定している。この継承的無意識とは、人類普遍に及ばずとも文化範囲における民族の無意識表象のことを指摘するものであり、私はこの継承的無意識の概念を自分の論文の中核思想として何度も置いたことがある。

 

それは文化がいかにして創造されるかに関してことだ。例えばある文化が存在している。その文化の中には中核として文化範囲の無意識表象が存在しており、それはある意味倫理として我々の無意識の範囲に存在している。しかし、ある機会においてその継承的な価値観に対して異を提示するような表象が存在したとする。我々ははじめはその作品に対して従来の価値観と異なるものであるゆえにそれに対して好評を下すことはないかもしれない。しかしそれが時間を重ね、継承されてゆくことによってその表象自体に「意味付け」が行われる。その結果として現代芸術はその作品に意味を得ることができた。そうして我々は新たな概念を組み込みながら少しずつ文化の無意識表象を変化させている。

 

すなわちどういうことか。継承的無意識というものは文化範囲であり、普遍的無意識とは異なり変容するものでありながら個人的無意識のように個人のものではなく集団に共通して所有している表象である。そしてそれは個人的無意識から発生したような表象も集団の中で検討することで集団の中に取り込められ、そして継承を行うことにより継承的無意識になる。それを繰り返すことによって少しずつ表象は普遍的な方向に近づくことになる。

この構図はハイカルチャーおよびサブカルチャーの図式に近しい。すなわち、サブカルチャーは文化そのものが消滅しない限り必ずハイカルチャーとしての立ち位置を獲得できるのだ。時間を経過するということは歴史になるということであり、その時点ですでに歴史学の学問の対象である。大学の研究対象として扱われることになればそれは立派なハイカルチャーだろう。そのような視点で考えた際、普遍的無意識表象に近い「神話」や「伝承」そのものと「マンガ」「アニメ」は実は同じ水準に考えられはしないだろうか。

以上を本書の読書録としてここに残しておく。