ネット右翼って、結局何なのか

読書録第二回。

 


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ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書) – 2014/2/7 村上 裕一 (著)

 

この本は「新中間大衆」「フロート」と「ネトウヨ」とを掛け合わせて記述が行われているのが大筋であり、ある意味インターネットに対しての功罪を考える本である。

 

大まかな筋としては現代の中で何が正しいかを理解できない一定層の「新中間大衆=フロート」がインターネットの情報をもとにして少しずつ右翼的な思想を身に着けているのではないかということである。日本浪漫派の思想を組み込みつつ、その進展を記述してもいるのだが、インターネットに関しての記述が自分はかなり共感できたし、自分が今まで読んできた別の本の思想ともリンクするところがあると思う。ゆえにここに少し自分の所感を記したい。

 

 

本の中で非常に多く用いられるのが「ネトウヨ」すなわち「ネット右翼」という言葉であるが、その生成の背景として自分はインターネットにおける「接続」が非常に大きいものがあると思う。

 

以下にしばらく記すのは自分の意見であり、インターネットにより巻き起こされた人間関係のつながりに関しての記述である。本書の中核とはそれる内容も含まれるがよろしければ。

 

 

接続過多と接続不足、この反する状況が両立している状況を読み解くにおいて非常に理解しやすいのがtwitterだろう。本書において何度も登場したこのアプリは自分の好きな人の見と接続ができいつでもどこでも相手に関しての情報を得ることができる。しかしそれは最終的に相手への強制的な接続をも示してしまった、その例がLINEアプリにおける「既読」であり、これは後にtwitterにも導入されたものである。


しかし、既読制度がもたらしたものは非常に大きく思う。「既読」というその言葉がLINE上に表示されるだけで、相手は何かの返事を来るのではないか、と考えてしまう。少なくとも私はそう思うから、既読をつけたら返事をすぐに返さなければと思ってしまう。その「既読」という文字がついたことによって互いがより互いを意識し、接続しなければならないという義務感にかられるだろう。そうして相手と自分との間で過剰なまでの接続が生じているのだ。

 

 

しかし、その他方において誰もがそれほどまでに過剰な接続を求めているわけでもないだろう。我々はすべての人間と仲良くすることは物理的にも不可能であるし、今後も決してできないだろう。しかし、互いに理解することはできるはず。インターネットは疑似的であるがネット上での相手との接続を可能にしているものであるしSNSはそれをより強固なものにした、そういっても過言ではないはずだ。これで世界中で相互理解が進展することになる、理論上はそう考えられるが、結果はまるでそうならず「自分の好きな人とばっかり繋がり、自分の好きな情報ばっかりを取り込んでいる」環境を生成してしまった。その最終的な結果としてインターネット上で「接続過多」と「接続不足」の両方が生じてしまったのである。

 

 

と、以上のように「接続」を中心概念としてインターネットに関して記述したが、本書はその特徴を記述するものとして「ノスタルジー」という言葉を用いている。

 

 

現代を生きる我々は以上なまでの情報量に囲まれており、その中で嘘を嘘と見抜くことが非常に困難になっている。本書の中で著者が2ちゃんねる創設者ひろゆきの言葉を引用し「嘘を嘘であると見抜ける人でないと(2ちゃんねるを)使うことは難しい」ということを述べていたが、それをはっきり判断できる人間もそう多くはない。ゆえに「何が正しいのかが分からない」人が多くなっている。彼らは情報過多な世界で正しいものを常に見つけられるような「安心感」がほしいはずと考えるのはいささか過ぎるかもしれないが、情報が正確であるという「承認」を求めていることは確かだろう。現代は「承認」をめぐる問題で埋め尽くされている。その中で「ノスタルジー」が帰休されている。著者は本の中でノスタルジーを「失われた青春=ディストピア」を希求する力としていた。


ここでまた私の意見を述べるが、しかし、なぜ「ノスタルジー」が発生したのだろう。私はそこには精神分析的な「母性」が求められているような気がしている。情報が多く渦巻いている中で現代の人間は過去の思い出の「暖かさ」すなわち「母性」に似たようなものが不足しているのではないか。斉藤環が「承認をめぐる病」というタイトルで本を出していたように、現代は自分の居場所を確保するために「キャラ」を作りそこから「承認」を得るシステムが構築されている。承認欲求とは精神分析的に考えるのであれば比較的幼児期に関しての、母子間の基本的信頼が大きく関係するところであろう。もしかしたら現代の人間はその「基本的信頼」にかけているのかもしれない。ゆえに信頼してほしいために接続過剰になろうともするし、相手が怖いから接続不足にもなろうとするのではないか。

 

 

では、そのような問題を抱えた我々はこれからいったいどこに向かうのだろうか。上記の「ノスタルジー」とも大きくリンクするものであるが、我々が「母性」を求めるものの、実際に母親から愛情を受けるということにも限界は存在しているし、我々は必ず自立をしなければならないのは社会において当然のことである。しかし現在においても発展を続けるインターネットにおいて基本的信頼ともいえるようなリテラシーの「基盤」の存在がなかなか形成されていない状況が見受けられる。ネットの絶対的定義が存在しない以上、インターネットとどう接していいのかが分からなくなっていることがあるのではないか。


それを超える力はやはり文学や、芸術に宿ると考えられる。例えば現代芸術のように一見すると全く理解できないような作品が、その作品の解釈をめぐる議論の末に新しい概念の形成のもととなることは大いにありうることだろう。本書において著者は「文学の復活」を何度も謳い、それによってインターネットの基盤が形成されうるとしている。しかし、それでもやはりインターネットの膨大な情報量の中で何が正しいのかを考察することができないことも多々ある。その理解できない「影」のようなもの、文学では照らせないものを芸術作品は照らすことができるのかもしれない。