2021.6.

こだまに乗って、偶然を発見する

2021年6月20日公開

 

6月19日。緊急事態宣言が解除される直前の日に、私は新幹線に乗って東京に向かっている。京都から東京に向かうことを「上京」ということに対する納得のいかなさを抱きながら、新幹線は京都駅を出発した。本当は昨日に出発する予定だったが、6月19日と18日を取り違えた私は新幹線の切符を間違って買い、スケジュールが一日ずれてしまった。本来であれば容易に変更はできたはずなのだが、購入した「ぷらっとこだま」のチケットは日程変更ができなかった。どうしてこんなミスをしたのだろう、疲れていたのだろうかと思いながら、そう考えても仕方がないので、6月19日の朝9時に京都を出るこだまに乗り込んだ。列車はにわか雨の中、東京に向かう。

 

note:https://note.com/ukiyojingu/n/n5436df058ca3

来る「合成音声音楽」の時代と失われた2000年代

2021年6月6日公開

 

先日Boothで注文した『合成音声音楽の世界』が無事に配達され、ポストの中に投函された。『ボーカロイド音楽の世界』シリーズは数年前から開始され、ボーカロイド文化を残し続けるための一つの指標として、界隈の中で大きく注目され続けている。今年はタイトルが『合成音声音楽の世界』と変わり、それによりさらに大きな範囲を視野に含めていくという今後の姿勢が表題より読み取れる。だが、「合成音声音楽」が「ボーカロイド音楽」のオルタナティブとして登場するのならば、私たちが「ボーカロイド音楽」と称して楽しんできた世界とそれがどのように重なり、どのように異なるのかを考える必要もあるだろう。

 

 

note:https://note.com/ukiyojingu/n/n4aeec847f4d3



2021.5.

「再生回数を気にするな」とみんな言うけれど

2021年5月23日公開

 

 外出する気力の一切を到来した梅雨で奪われてしまい、連日自宅に引きこもっていた。もっとも、外出自粛の空気感が未だに残っている中で、それは適当な選択かもしれない。そんな中、今日はたまたま天気が良かったため、洗濯物を干し、食糧調達と牛乳パックのリサイクルを出して、私は大学に向かうのであった。。8階建ての最上階にある住居は高所だからか若干蒸し暑く、熱を吸収して熱くなった午後3時のアスファルトも、自分の部屋を比べてみたら少しひんやりしているように思えた。

note:https://note.com/ukiyojingu/n/n6e6d085c7a33

「出会い系サイト」としてのボーカロイドとニコニコ動画

2021年5月8日公開

 

 連日の雨で、梅雨の接近を連想する。大学の助手のアルバイトの休憩時間、30分間だけ文章を書いてみようと思ったので、パソコンを開く。昨日は過去に自分の作った動画を2分に縮めてTwitterのタイムラインにアップロードした。実のところ、自分の作ったものが広範囲に拡散され続けることにはどこか気持ち悪さも抱えているが、この気持ちこそ、自分の作ったものに対する自信そのものだと信じている。せめてこの感覚が自分の過信でないことを祈りたい。

 

note:https://note.com/ukiyojingu/n/nfbb628ba0910

ネット上の「経験」はいかに残せるか——インターネットアートと参加型アートより学ぶ

2021年5月17日公開

 

 2000年代、その中でも特に2000年代初め~中頃をインターネットが最も活発だった時期と主張してしまうのは、いささか早計だろうか。1990年代生まれの自分にとって、90年代末に初めて目にしたデジタルなものとの遭遇は、幼稚園の頃に買ってもらった「デジヴァイス」だった。2000年代には2ちゃんねるが台頭し、「恋のマイアヒ」を通し本格的にフラッシュ動画の爆発的な人気上昇を知った。

 

note:https://note.com/ukiyojingu/n/n7d32e5db6e46

『輪るピングドラム』と遺族の倫理:地下鉄サリン事件・東日本大震災・パンデミック社会

2021年5月5日公開

 

 5月最後の祝日。6月は祝日がないため、少なくとも70日以上は祝日を迎えることはないらしい。自宅で『輪るピングドラム』の連続視聴番組を見ながら、この文章を書いている。当時リアルタイムで見ていたアニメーションだったが、10年前の放送と聞き、意外なほどに最近の出来事であることを知った。私にとってはもっと昔、中学生くらいの出来事のような気がしたからだ。

 

 

note:https://note.com/ukiyojingu/n/n09c2b21adfca



2021.4.

『言葉を扱う覚悟はあるか?』 ukiyojingu+結月ゆかり(live 2021.4.22.)

 

ボカロPがみな一様に、コメント欄に意味がありそうな文章を一言だけ書き残しているのはなぜだろう。音楽が複数要素に分解され、各々がそれぞれの欲望を満たしたいがために消費を重ねていく中で、ボカロ楽曲のみならずあらゆるものがカテゴライズされ、私たちはわかりやすいそれらを味わう。投稿者コメントに残される身近なメッセージも、もはや楔のように、それがいったい何であるかを説明しているように見せつつ、意味は一切説明されないこともある。そうして、私たちは曖昧なものをわかりやすくカテゴライズ化し、そして身勝手に共感する。

 

50年後の過去から

2021年4月19日公開

 

23時前、京都の自室で文章を書いている。今日は提出締め切りの迫った申請書類を作成した。外の天気はとてもよく、いつもなら夕方から出かけることなんでないくせに外に出かけて本を読むことにした。家賃2万9千円の小さな部屋には自転車置き場なんて贅沢なものはなく、いつも折り畳み自転車を部屋の中に入れている。

 



2021.3.

ukiyojingu 作品集『言語交錯』

 

2021年3月31日発売 ¥1,000-

 

Bandcamp : https://ukiyojingu.bandcamp.com/

Booth : https://ukiyojingu.booth.pm/items/2856870

特典:『言語交錯』歌詞+解説の小冊子

 

クロスフェードはこちら↓

https://nico.ms/sm38510585

 

この曲たちは動物的な消費をいかに避けるかをめぐり、新しい言葉を得るためにはどのようにしていけばいいのかをずっと考えた。

その一つのまとった成果がこれである。

私はこの中で、全てを語りきることはできなかった。

そもそも、それらは語りきることはできないものではなかったのではないだろうか。

しかし、だからこそ、私たちの言語はこれからも語られていくべきだ。

 




2021.2.

『それでも、溢れ出るのは感情だけだった。』

ukiyojingu+結月ゆかり

 

「言語交錯」は、これにて終わりとなる。

これまで行ってきた9もの時間を用いた思考たちは、ときに音楽の様式を否定し、

ときに言語の可能性を否定しながら、

多様な形での言語と言葉の境界を問いただすことを行ってきた。

 

それらのすべては、来るべく新しい表現を通した言葉の可能性を求めるものとして作り上げてきた。

しかし、新しい言葉とは従来の言語体系から逸脱するべく誕生したものゆえに本質的に孤独であり、しかも孤独はすぐに従来の言語体系に吸収される形で消失してしまう。

それはまさしく、芸術という概念に対するアンチテーゼとしての芸術さえも吸収して膨大化する

芸術の世界に近いだろう。 



2021.1.

2021.1.22. ukiyojingu 『言語交錯』live digest movie

 

本ライブは2021年に再発令された緊急事態宣言下で行われた。対象地域に含まれた京都市内で沢山の機材を持ち運びながら公共交通機関に乗り込んだ自分にとって、電車の中の視線はとても気になるものであった。この状況を逆説的に利用することで誕生した新たな表現は無数にあったが、一方で昔ながらのバンドやライブハウスの在り方は社会に大きく非難され、もはやバンドマンはその存在が悪であるかのようにも言われている。

その背景には、「音楽は人を救う」といった楽観視が完全に否定され、各々が自分の世界で作った事実より判断を下すことによって生じた、今までは比べ物にならない形での監視と分断が進んだ魔女狩り社会があるだろう。誰しもが監視から己を守るために思考を続けなければならないこの時代の中で、激しく感覚に訴えるライブハウスの手法は無用の産物へとなり果てるのかもしれない。

 

[次回のライブ] ※終了しました

 

2021. 1. 22.

at 京都Annies' Cafe (Twitter:@annies_kyoto )にて約1年3か月ぶりにライブを行います。

w/ YUKAI (Twitter:@good9481 )

open 18:00 / start 19:00

charge ¥1500-

 

詳細:

https://annies-kyoto.therestaurant.jp/posts/10863394?categoryIds=1916692#&gid=1&pid=15



2020.12.

「遺しておくべき意志はあるか?」

ukiyojingu+結月ゆかり

 

いまから丁度1年前、『言葉を扱う覚悟はあるか?』より「言語交錯」という表題を掲げながら既に8本の映像を作り上げ、これで9本目だ。

これまで、言葉の伝達不可能性と音楽の消費に対抗しながら、どうにかして方法をずらしてコミュニケーションを行う方法の試行錯誤をしてきた。これまでの全ての動画は、そのすべての実践の結果である。ある時は文字に感情を載せることの儚さを考え、そしてある時には感情ではなく表現方法の限界についてを考えてきた。

 

この遺書のような時間と言葉は、これまでの試行錯誤の事実上の結論だ。私たちの感情が本質的に伝達不可能であり、そして私たちの表現が陳腐な「崇高」へと堕落してしまうのであれば、その果てに私たちの思いはどのような手法をもってしても伝達不可能なものであることが明らかになってしまう。そうして、言葉の表現限界まで突き詰めた表現は最終的には孤独になってしまう。

 

[note]国内ネット文化における閉鎖的空間性と「偶然の出会い」を求めて

 

1.はじめに

 2008年に情報社会学者の濱野智史が発表した『アーキテクチャの生態系』は、2000年代における代表的批評家・東浩紀のデータベース論と中心とした「ゼロ年代批評」の流れに大きな影響を与えた著作である(1) 。その特徴は東がフランス現代思想の論者たちの権力論と惹きつけながら論じた環境管理型社会論を(2)、2000年代に流行した国内ネット文化を対象に展開した点にある。ローレンス・レッシグによる「アーキテクチャ(3)」という概念を主軸に展開された濱野の議論はゼロ年代批評でも代表的な本という立ち位置を獲得したが(4)、特に『アーキテクチャの生態系』を発表した2008年以降の濱野は女性アイドル論に傾倒していったゆえ(5)、ゼロ年代批評の文脈を継承した国内ネット文化論のその後の発展は無かった(6)。

 

note →カクヨム →ニコマガ



2020.10.

「_____________?」

ukiyojingu+結月ゆかり

 

音楽は一体、どこまで記号になるのだろうか。私たちの「崇高」という言葉は私たちが支持するものこそが崇高であるという誤った解釈により、かつての位置を追いやられている。事実でないことがたやすく事実となりうる時代で、私たちの崇高は再生産され消費されてる。この時代の中で、崇高が元来どのような意味を持っていたかはもはや問題にさえならない。閉じられた環境の中で消費を続ける私たちは、その外部に向かうことを放棄している点で、完全な世界の中にいる。

ukiyojingu 『言語交錯 1-3』 digest movie

 

「言葉を扱う覚悟はあるか?」言語交錯 1/10

https://nico.ms/sm36154978

「微細は失われたのか?」言語交錯 2/10

https://nico.ms/sm36492601

「私たちは何者だろうか?」言語交錯 3/10

https://nico.ms/sm36633465

 

ukiyojingu 『言語交錯 4-7』digest movie

 

「表記と意味は一致しうるか?」言語交錯 4/10

https://nico.ms/sm37193611

「感情の表出に意味はあるのか?」言語交錯 5/10

https://nico.ms/sm37278217

「都市の呼吸を知っているか?」言語交錯 6/10

https://nico.ms/sm37360788

「崇高は盗作されるのか?」言語交錯 7/10

https://nico.ms/sm37387001



2020.8.

『崇高は盗作されるのか?』

ukiyojingu+結月ゆかり

 

カントは「美的感覚」が悟性と構想力によって成り立つものであるのに対し、「崇高」を私たちの抑圧を越えて噴出するような快楽のこと指した。「絶対的なもの」かのように認識されることも多い崇高は、私たちにとってはいわば「言葉で表現しようのない何か」だった。

それはおおよそ理性的でなく、ゆえに記号に置換できない。にもかかわらず、常に感情を伝える方法を追い続けてきた私たちは、それをいかに他者と共感するかを試み続けてきた。それがあらゆる表現の歴史であり、芸術だった、ということはできるだろう。

 

『感情の表出に意味はあるのか?』

ukiyojingu+結月ゆかり

 

私たちの音楽は、本質的には何者も変えることができない。

歌詞は所詮記号の伝達行為であり、あらゆる感情表現は、「共感」という非常にに曖昧なものによって担保されている。

その曖昧さが、私たちが朝日に感動し、夕日に憂う理由を説明出来なくしている。

従って、感情は説明できず、その説明の出来なさが、感情の存在を理解することを不可能にしている。

『都市の呼吸を知っているか?』

ukiyojingu+結月ゆかり

 

感情表現の限界が見出され、崇高なる論理のみで形成された都市はひっそりとした呼吸のみ残して今でも生きている。

呼吸は何時でも私たちを肯定し、途絶えることなく続いている。

全ての当然が崩れ去り、残った残骸は崇高なる論理と都市の呼吸のみである。

それは誰の眼にも止まることなく、ひっそりと行われていく。

ここまでは、全てが決まっていたことだった。

 

「ボーカロイド文化」をめぐるコミュニティの形成史

 

2020年7月28日公開

https://note.com/ukiyojingu/n/n516fb1b86de3 



2020.7.

『不愉快すぎる音階、不愉快すぎるメロディ、音も最悪コンピ』リリース

ukiyojingu「言葉を扱う覚悟はあるか?」が本プレイリストに掲載されています。

『表記と意味は一致しうるのか?』

ukiyojingu+結月ゆかり

 

以前、自身の過去ツイートを引用することによって言葉の意味を新しく作り直す実践を行ったことがある。

今回は自身の過去ツイートをデータソースとして自動的に文章を生成させ、その解釈と整理を別の自動生成ソフトとともに編集した。

決定的な差は、文章を作り出したのは自分自身ではなく、ツイートをもとに自動生成ソフトが作成している点である。

live archive at ニコニコ生放送 2020.1. 

ukiyojingu+結月ゆかり

 

1. fraction 0:00

2. city 4:16

3. document 8:17

4. 言葉を扱う覚悟はあるか? 14:27



2020.4.

[LIVE]

 

・2020. 4.24@尼崎tora(兵庫)

[Turning Point]

w/ DJゆのみん/ 夕方の豊野/ ラグナセカ/ (mollfon)/

NUTO

open 18:00/ start 18:30

adv 1,800/ door 2,500

『微細は失われたのか?』ukiyojingu+結月ゆかり

 

 

夕日が沈むのが哀しいとか、月が綺麗とか、そういった表現がいつから誕生したのだろうか、と思います。

比喩は世界中のどこでもありますが、日本語はとくに隠喩の背景にあるコンテクストが豊富で、それを読み解くことは海外から見たらとても難しい、という話を聞いたこともあります。

『私たちは何者だろうか?』

ukiyojingu+結月ゆかり

 

私たちが何者であるのかを考えている私たちこそ、何者によってもその存在を否定されるべきではないものである。

そうであるならば、私たちは自らが何者であるのかを考えることを辞めた瞬間、何者になることもできなくなってしまう。